4年の時間
クリースーです。
先月は妻の命日でした。正確には祥月命日というのだそうですね。フォロワーさんから教わりました。
妻がいなくなり、4年が経ちました。
4年。
自分では信じられない時間を超えてきたと思います。
妻がいなくなった後、何もみえなくなり、
その先をどうしていけばよいかもわからない中、
とにかく1年だけは踏ん張って生きてみよう。何かがみえるかもしれない。
と心に言い聞かせ、日々を超えてきました。
それが4年。も超えてきたんだ。と。
本当に苦しく、悲しく、さみしく。
妻がいない中で、生きる希望や目標、目的など見い出せず。
その中で、今日を超えていくための「生きる糧」となるものを無理やりにでも設定し、自分の心を誤魔化しつつ、生きてきたと思います。
日々、心は浮き沈みをします。
妻はいないけれど、存在はしている。
と思い、思いこませてきました。
毎日隣にいるであろう妻に話しかけ、一緒に過ごす。
本当はすぐにでも妻のところにいきたい。楽になりたい。と思うけど。
それでは妻に会えないのではないか。という恐れもあります。だから、
この先、妻のいる世界でその妻に会うために。頑張ってきたよ。って言えるために、
日々を超えるんだと。
反して、超えていく日々の中で、頑張っても結果、妻に会えないのではないか。
そもそも、妻は存在していないのではないか。
自分がしていることは全て無意味なことなのでは。
という考えにもなり不安に襲われ、無気力になります。
心の浮き沈みを繰り返しつつ、とにかく超えてきた4年間。よく頑張ったと思いたいです。(妻も褒めてくれているかも。)
同時にいつまで耐えて、頑張ればいいのか。見えないこれからにくじけそうになります。
妻がいない中で、生きる意味はまだ見出せませんが、
この4年で、生きていくための援護となるもの「生きる糧」はいくつか見いだせたと思います。苦しい日々を超えるのを支えてくれる糧。音楽や絵、このブログやSNSのフォロワーさんもそのひとつ。援護は多いに越したことはないです。
心身が浮き沈みする中、
生きる糧に支えてもらいつつ、
この先に妻と会うために日々を超える。
今はそれでいいかと思います。
その日々の中で、また何かがみえてくるかもしれませんし。
今日も妻とお茶の時間を持ちつつ、1日を越えていこう。
今日も話を聞いてくれて、ありがとうございました。(^^♪